塗商五十年
-稲垣忠右ェ門の歩んだ道-
1章 故郷三河の稲垣家
1-1 矢作川と稲垣家
輪島塗の稲忠の創業者、稲垣忠右エ門は愛知県碧海群上郷村字枡塚(現在の豊田市上郷町枡塚)で生まれている。近くに流れる矢作川は忠右エ門が子供のころに遊んだ川であり、旧制岡崎中学に通学している間に、朝夕この川に架かる矢作橋を自転車で渡っていた。幼・青年時代をとおして、忘れることのできない思い出深い川である。
この川は木曾山脈に水源を発し、愛知県中央部を南流し碧南市の南端で知多湾にそそぐ。矢作橋は城下町岡崎と矢作地区を結ぶ橋で、藩政時代には東海道一の二百八間(三七三㍍)もの長い箸が架かっていたという。若い頃の豊臣秀吉と蜂須賀小六との出会いの場所でもあった。また忠右エ門が毎日通った岡崎は徳川家康の出生地であり、東海道の宿駅として栄えた町である。
矢作川と稲垣家との関わりは深い。
稲垣家は代々『藤次郎家』と称される旧家で、初代の稲垣正兼惣右エ門より、五代目までは幡豆中畑の藩であったが、六代目の稲垣惣助の代にいたって、寛政初年(一七八九)に矢作川に下流、碧南の伏見屋新田流作村に移った。この地の豪家として支配に当たった。寛政初年は天明の飢饉や一揆などの引締めに、幕府が諸大名に囲米を命じ、奢侈禁止令や棄損令などを次々と出した年である。
藤次郎家(稲垣家)に残る古文書によると、矢作川下流域の『前浜新田』『伏見屋新田』『伏見屋外新田』の開発をはじめ、矢作川堤の延長五里(20㌔)にわたる改修請願など公共事業につくしたことが記されている。文政年間(一八一八~)には沼津藩主水野出羽守より、その功績に対して褒賞を賜ったこともあり、代々にわたり矢作川の流域開発・改修につくした功績は実に大きいと、愛知県上郷町史にしるされている。
稲垣家代々の墓のある傍らに、先祖らが矢作川下流開拓にあたった流作基地の石碑が刻されている。昭和六二年の移転記念に建てられたものである。
流作とは江戸時代に河川の氾濫で水害を受けやすい場所にある田地を称した。
稲垣家の歴史の源流は、たゆまぬ開発魂と地域への貢献精神にあったといえよう。
目次
1章 故郷三河の稲垣家
1-1 矢作川と稲垣家
1-2 学問ひとすじ 祖父真郎
1-3 人生謳歌、父隆三郎
1-4 おいたち
1-5 収蔵品の虫干し
1-6 現代の稲垣家
2章 塗師屋への道
2-1 クリーニング店に住み込み
2-2 はじめて外商にでる
2-3 輪島の地を踏む
2-4 三重で漆器外商、そして結婚
2-5 忠右エ門を名乗る
2-6 輪島に移住し、塗師屋となる
2-7 かけだし時代
2-8 岩津のおてつさん
2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る
3章 苦闘の時代
3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ
3-2 行商三昧
3-3 能登観光の黎明と水害受難
4章 漆器組合の理事長に就任
4-1 塗師屋の仲間組織
4-2 火中の栗
4-3 組合再建への礎に
4-4 高松宮妃殿下を迎える
5章 漆器と観光の船出
5-1 観光時代の到来
5-2 カニ族のたまり場
5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設
5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん
6章 逝去、子息らに夢を託して
6-1 ボーリング場跡地を購入
6-2 民夫社長を指名、会長になる
6-3 七十四歳の誕生日
6-4 病床でキリコ会館の開設を見る
6-5 初秋に逝く
6-6 没後十年、創業六十年