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輪島塗漆器 稲忠の世界

塗商五十年
-稲垣忠右ェ門の歩んだ道-

5章 漆器と観光の船出

5-1 観光時代の到来

漆器組合長になった頃から、忠右ェ門の場所まわりは遠のきがちになった。組合長という職責は精神的にも物理的にも、大きな負担がかかるものであった。自分の仕事は第二に考えなければ、とうてい成しえるものではなかった。
 
行商ひとすじに輪島漆器の商いをしてきた忠右ェ門にとって、旅先を思うように回れないことは痛手であった。その間番頭をかわりに場所に出したが、この仕事ばかりは、自らが率先して出かけなければと、忠右ェ門はいつも自分に言い聞かせていた。
 
ここまでが自分の限度、と漆器組合の理事長をいさぎよく辞任した昭和三十八年一月に、忠右ェ門が輪島にきてはじめてという大雪に見舞われた。もう輪島に来てから三十四年が経っていた。
 
十一日から延べ十二日間、雪の降らない日がなかったというほどの未曾有の大雪であった。鉄道もバスもストップして、交通機関はほとんどマヒ状態であった。この雪で北陸地方で百七十八名の死者をだしている。輪島の町内では雪の捨て場所にさえ困窮した。水害といい雪害といい、自然の猛威の前にはなすすべもなかった。
 
その時、忠右ェ門は誰も出張に出れる者がいないので、当時中学三年だった現社長の民夫を東京へ出張させた。気丈夫にも、民夫は一人で初めてお客様への納品に列車に乗り込み、東京の日本放送協会に七組の屠蘇器を納めに行ったのである。
 


 
観光客が店にかなり入るようになり、輪島塗の工程見学を済ませたお客が、充分価値を理解して頂いた上で、買い物をしてくださった。旅先ではこのように作業の工程を見てもらうすべもなかったので、真っ二つに割ったお椀の断面がよく見えるサンプルを持参して、手のこんだ作業工程と念入りな仕事ぶりを説明の材料にしたものであった。
 
観光客の跡絶える冬になった。さあ、久し振り存分に旅回りをしてこようか、という矢先の大雪であった。
 
<思うようにいかないものだ>と、忠右ェ門は思った。
 
百姓にとって大雪は『吉』と昔から言われたものだが、この年は能登観光の吉年となった。
 
三月二十四日に、通称"能登親知らず"ともよばれる曽々木海岸の岸壁をくりぬいて、曽々木トンネルが貫通した。これにより輪島市と珠洲市をつなぐ海岸道路が開通することになり、奥能登への観光客が一気に増加したのである。
 
『忘却の花びら』の映画化、あるいはベストセラーになった吉川英治の「新平家物語』などの影響もあって、能登は新しい観光地として脚光を浴びつつあったが、曽々木トンネルの開通は、文字通り『奥能登観光元年』の役割を果たした。
 
輸島市の調べによると、昭和三十三年に輪島への入込み観光客は八万一千人だが、三十六年には十五万人、さらに三十八年には二十八万人という急ピッチの上昇をみせている。また四十一年には四十六万人、四十三年には九十万人、さらに四十六年には実に百五十万人となり、その後もおどろくほどの勢いで上昇カーブを描いた。
 
稲忠漆器店も一般観光客が急増していた。時には著名な作家や人気俳優が、観光客に混じって来訪することもあった。
 
観光客が現地に来て作業工程を見聞した上で、漆器を買っていただける時代が思ったとおりやってきた。玄関前が狭くてバスが思うように入れず、旅行業者にしかられたり、近所に迷惑をかけることもしばしば生じた。だが、忠右ェ門にとっては、感謝すべき有り難い時代の到来であった。またかって、わずかに訪れるようになった観光客を横目にみながら覚えた予感が、ここにきて的中したなと、うなずくのであった。
 
昭和三十八年、忠右ェ門は六十歳になっていた。末っ子の民夫(現社長)が高校へ入学した年であった。

稲忠 玉虫蒔絵


 

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